策士羽柴秀吉を困らせた久松山山城の鳥取市写真

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久松山(きゅうしょうざん)落城しなかったら秀吉の時代がなかったかも

鳥取市安長から撮った久松山の景写真です、
久松山と書いて「きゅうしょうざん」と呼び、方角で山の形が違い、鳥取駅がこの山の正面となり富士山にも見えます。

この写真の方角は西側になり、手前が千代川になり、そして、一時写真の左側でUFOが多発しているらしく、UFO基地があると噂がたちました。
基地はありませんが、山が続き閉鎖した地域なので、クレー射撃場がありましたが、今は使われていません。

鳥取駅と対面に久松山があり、標高263mのこの山は市外地のどこからでも見える山で、迷うことなく行くことができます、
写真の陸橋は昭和初期の映画のロケで映され、見方によっては、久松山をチョン切ったようにも見えます。

久松山を目指して歩くと、鳥取カレーとノボリを上げている店があります、このノボリは鳥取カレー倶楽部が認定した鳥取カレーの認定店です。

カレー倶楽部の他に、九州のカレー会社も進出して、どちらのカレーが鳥取を制覇するかカレーの激戦となりつつあります。

久松山のほうは、室町時代後期に築城された山城で、
1581年(天正9年)羽柴秀吉の悲惨な籠城戦の山城でもあります、策士の秀吉が仕掛けた策は、経済戦争を仕掛けてきました、難攻不落の城なので秀吉は戦争を始める前に鳥取市内の米を高値で買い集め鳥取城を包囲して兵糧攻めで落城したのです。

そろそろ城の食料が、なくなるはず・・・なのにその気配がない

城の近くに住む老婆に小判を与えると城の秘密を話した、「毛利は、賀露港に船で米を運び地下の抜け道から城に運んでいる。」抜け道は、すぐに発見されて封鎖され・・・。

この時の羽柴秀吉は中国攻め総大将を務め2万の大軍を率いて因幡の国、鳥取城に来襲ていて、中国攻めに手をやき、その後の、明智光秀の謀反に遅れたら、羽柴秀吉の時代は来てなったかもしれません、鳥取城落城で戦争はめまぐるしく歴史は、動いたようです。



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